切実な頼みと冷たい拒絶

学園の近くの、さびれた商店街の食堂で遅めの昼食を済ませた勢事が、引き戸を開けて通りに出たときに目に入ったのは、バイクと2人の子どもだった。いや、まだ赤子と言ったほうが正しいだろう。おそらく歩き始めたばかりの2歳くらいの妹と、それよりも1つか、2つ上の姉。2人は軽トラックの影からよちよち歩きで道路の中央に向かっていた。バイクからは完全に死角になっている。

「このままだと轢かれる」

とっさにそう判断した勢事の体は勝手に動いていた。子どものほうへ駆け出して、バイクの前に仁王立ちになったのだ。

目の前に突然現れた障害物をバイクはよけることができなかった。次の瞬間、前輪はぐっと踏ん張った勢事の右足に乗り上げていた。骨の砕ける嫌な音がした。足首だった。

救急車で搬送された先の整形外科が「うちでは無理」と断るくらいの重傷だった。勢事は以前、自分が勤めていた病院に送られ、そこで「最短でも4カ月の入院が必要だ」と診断された。

途方に暮れた。これで、いよいよ学園の金が回らなくなる。注目を浴びた施設は、実は勢事の講演活動という副業によって、なんとか資金をつないでいたのだった。その収入を絶たれると、経営はあっという間に立ち行かなくなってしまう。

9人の職員の顔が浮かぶ。通っている子どもたちの顔、その親たちの顔。そして何より、落ちぶれてしまった未来の自分の顔……。

「いよいよ最後のカードを切るべきか」

そう思うものの、なかなか踏ん切りがつかなかった。

その「カード」とは実の父である丈治のことだ。勢事が2歳のとき、母と自分を捨てて家を出て行った丈治との記憶は当然ながらまったくと言っていいくらいになく、その後もほとんど交流がなかった。

仕事で福岡に寄るから一緒に飲もうと連絡があったのは2年前のことだった。それから数度、中洲や祇園のクラブで杯を交わした。とにかく破天荒な男で、人格は明らかに破綻していたが、不思議な魅力をもっていることも、また事実だった。

有り体にいえば、丈治は女にも、男にもモテた。一度、中洲のクラブで会ったときのことだった。そのころ、付き合っていた別のクラブのチーママを同伴していた丈治は勢事を地下のその店に誘った。少し遅れて入った勢事がボックス席に座ると、2人はおもむろに立ち上がってトイレへと向かった。それから40分。勢事は1人で待たされた。2人が何をしているのかは明らかだった。痺れを切らして帰ろうとしたとき、ようやく2人が席に戻ってきた。

「何しよった!」
「そんなことはおまえには関係ない」

丈治はその一言ですべてを終わらせた。それで収めてしまう迫力がある。ドスが効いているのだ。店のママは「さすが丈治さん」と、むしろ喜んだ。

一事が万事で、とにかく身勝手。自分の都合を最優先し、欲望の赴くままに行動する。喧嘩っ早くて、手が早い。それなのに、丈治に巻き込まれてしまう人は後を絶たない。女は丈治に惚れ、男は騙される。

丈治は大阪で再婚し、3人の娘をもうけた。一時は子どもたちの給食費さえ支払えないほどに困窮したこともあったようだが、勢事と再開したころは、子ども向けの塾の経営で一定の成功を収めていた。丈治自身が編み出したという脳開発がウリで、勢事にはどこまでも胡散臭く思えたが、丈治は「フランチャイズ展開も波に乗ってきたのだ」と、羽振りは良さそうだった。

そんな父に頭を下げるのは抵抗があった。一生、頼りになんかするものか、と思っていたからだ。ただ、意地を張っている場合じゃなくなっていた。携帯電話の電話帳で父の名前を選ぶ。何度か大きく息をして、ようやく発信ボタンを押す。

「あ、俺、勢事やけど」
「おまえから連絡してくるなんて珍しいな。どうした?」

勢事は事情を簡潔に説明した。

「それで、200万円、貸してほしいんやけど」

沈黙が重たかった。

「だめや」

勢事は絶句した。人生で初めての、実の息子からの頼みことなのだ。なんとかしてやろうと思うのが、親心ではないのか。

「だって、勢事君は男の子やろ。やから、だめや。自分で何とかせえ」

電話はいとまを告げる言葉もなく、あっけなく切れた。

(つづく)